とある二流大学院卒の個人的見解

二流大学院卒ITプレイヤーが学習や世の中の動向に対する自分の意見を綴っていくブログ

雑談.羅生門の下人

 最近大学が忙しくて、元来文章を考えるのが苦手な私の更新ペースが著しく落ち込んでいるのが見て取れます。もともと、文章作成能力の低下を防ぐことと日々の思考の備忘録の作成を、自分の利益と考え、ブログの作成に至ったのですが、この状況では文章をまとめるのもままならないため、本日は少しどうでもいいはなしをします。この状況は今セメスター終了まで続くかもしれません。

 

 高校生の人たちは羅生門を読んだことがあると思います。あの、下人が景気のせいで職場を首にされて、盗人になるか死ぬかを考えていたところ、羅生門で「生きるためにかつらを作る目的で死人の髪を抜いていた老婆」に出会い、その「この死人は生きるために努力した悪人であるから、生きるための行動は許してくれるだろう」的な言い分を聞いて、盗人の道を選ぶという話です。(滅茶苦茶省いているので、本文も参照してください)

 この話では、下人は「悪人として生きるのか、それとも、善人のまま死ぬのか」という二択を迫られているように描かれています。しかしながら、内容をしっかりと読んでみると、その選択肢しか本当にないのかという疑問が生じます。なぜなら、老婆を脅すときに用いていたのはですよね?そして、(今とは違って)山に入れば土地や味は悪くても食べれるものは多数あるはずです。その所有者も今ほど明確ではなく、隠遁生活をおくるにはもってこいなわけです。刀は居住の製作や食料の取得を簡単にできるアドバンテージであり、水と草、そして動物の肉さえあれば、サバイバルは可能なはずです。水の豊富な日本において、沢を発見できないとは考えにくいですし、草や動物の肉は腕次第でどうにかなるでしょう。

 また、出家という手もあります。不景気の時なため難しいかもしれませんが、それでも、若く力のあるこの下人はその場所においても有用性が認められるかもしれません。その確率をあげるべく、多くの場所をまわって頼み込むということも可能であったはずですが、下人の思考にはその考えはまるっきり浮かんでいないように見えます。

 即ち、私が言いたいことは、下人は自分で作成した二択に縛られて、思考停止の状態になってしまっていたということです。二択は分かりやすく、喜ばれるものですが、時に人々の思考を単調化し、時に間違った判断を生む原因になっているというわけです。選択肢を自分で作成したときは、本当にそれ以外ないのかを見直す機会を作らなくてはならない。ということが羅生門から得られる一番の教訓であるのではないでしょうか。(「骰子の七の目」的な結論ですね。原作は「私と踊って」でしたっけ?私の好みの話であるのに、学校では取り扱われなかったため、少し残念に思っています。)