とある二流大学院卒の個人的見解

二流大学院卒ITプレイヤーが学習や世の中の動向に対する自分の意見を綴っていくブログ

雑談.参議院選挙と学習

 先日、参議院選挙がありました。7/21の選挙、皆さんはどう感じているでしょうか。「政治家が変わっても、特に大きく変わるわけではない」って?そのような声も多いからか、今回の選挙の投票率は過去2番目の低さらしいです。

 話は変わりますが、ハンセン病訴訟において、国が補償すべきという話がありますね。詳しい内容は調べてもらえばわかるのですが、確かに、このような政策がとられていたのだから、その被害を責任あるところに取ってもらわなくてはならないということは当たり前のことでしょう。しかしながら、皆が「国」と呼んでいるところが補償するということはどのようなことなのでしょうか

 その責任を「国」が補償するというのはどういうことなのかというと、税金によって保証するということですよね。その税金というのは、我々一人ひとりが働いて得たお金や、買い物したときのお金を集約したものであり、「私たちのお金」です。勿論、彼らが可哀想であることは確かであるのですが、我々日本国民全員の強制的な募金によって、昔の政治家の尻拭いをするというのは微妙な気持ちになります。その時、選挙権のあった大人はその人を選んだという過失があるので、お金を支払わなくてはならないというのはわかりますが、過失のない選挙権のなかった世代までお金を支払わなくてはならないというのは、あまり合理的ではないように感じます

 何を言いたいのかというと、「国家予算=私たちのお金」、「政治=私たちの生活基盤」という意識が非常に低いということを言いたいのです。だから、すぐに国が補償すればいい、国がやればいいという言葉が出てくるのだろうと感じています。「国=自分たち」という意識があれば、もう少し無責任ではない言動ができるのではないでしょうか。(そう考えると政治のせの字もわからないくせに等といった言葉を投げかけた人は政治を理解していないことになりますね。政治は私たちの生活であり、本来の姿において、特殊な技能や選択を必要としない、民衆の意思によって動くべきものであるからです。すなわち、本来なら誰でもできるものでなければならないのです。)

 今回の選挙率の低さは、そのような、政治を非日常なものと錯覚させるような、得体のしれない何かによるものであるだろうと感じています。その得体のしれない何かが教科書に潜んでいるように感じてなりません。

 教科書は特殊な考え方、一方的な内容、事実確認の取れていない内容は載っていません。(だからこそ、ドラマティックな歴史も骨抜きにされて無味乾燥な味しかしないのですが)そして、入試という制度の厳格さによって、教科書の枠を超えた正しい学習ではなく、テストに出る、出ないといった、学習が横行してしまっています。

 大学での学びは、覚えることは少々であり、主に、議論することが中心となります。(それも少しずつ変わりつつあるようですが・・・)その議論の中には一方的な内容に対しての話や、事実確認が取れていない考え方などに対する話も多数あります。教科書”だけ”を丁寧に学習した人というのは、その議論の場において建設的なことを言える人が少ないように思えます。教科書を教材として、ずっと使い倒すことで、議論する能力は少しずつ削られていき、「唯一の正しい」答えを他者から与えられたり、確認できたりしないと気が済まないようになっている人を何名かしっています。しかしながら、政治は「唯一の正しい」答えなど存在せず、議論をかさねて得るものです

 どんなものでもいいです。一方的な内容でもいいです。馬鹿げた詭弁でもいいです。多くの内容を見聞きし、それについて議論するということを怠らないようにしてください。