とある二流大学院卒の個人的見解

二流大学院卒ITプレイヤーが学習や世の中の動向に対する自分の意見を綴っていくブログ

雑談.「99.999%」は「絶対」?

 先日、天文学の講義がありました。その中で、アボガドロ数個の物質が一定の場所に集まることは確率的に絶対に起きえない」というセリフがありました。これは、本当なのでしょうか。(こういう風に文章を書いていて、本当だという結論になることはほとんどないため、次の段落から、この考えに対する批判を示していくのだということが予想されますね。)

 そもそも、確立・統計の起源は、すべての場合をチェックすることができないし、知ることができない場合があるけれども、だからと言ってまったくわからないと放り投げるではなく、推定を行いたいという意思だと考えています。(量子力学内では根本的に確立が出てきているなどとする立場が多数を占めていますが、私としては、観測するということは、その観測装置の「視力」で見ることができる解像度で物質を見ているとみなせるため、解像度にぴったりの一画素分だけ自由度が出ているように見えているだけなのではないかと考えています。そして、その視力は光を使っている以上、光の振幅以下にならないということでしょう。神はサイコロを振らない。私の遠き師アインシュタインの教えになります。相対論でも光速度一定などというわけのわからないことを前提にしている教えがありますが、光の屈折がなぜ起きるのかを考えれば、明らかな間違いといえるでしょう。)

 よって、確率的、統計的とは、ただの推定であると言わざるを得ません。となると、推定なのにもかかわらず、確実というのはとても危ない行為であるといえるでしょう。勿論、目の前の反応がアボガドロ数個の分子の拡散なら、文句も言いません。しかしながら、宇宙の発生の場合は違います。もしかしたら、十分に繰り返された結果、私たちの住んでいる宇宙ではそうなっているのかもしれないからです。宇宙ができるまでどれだけの”時間”があったか、我々は知ることができていません。よって、十分に確率の低いことでも、繰り返し行えば、十分あり得るということになります。例えば、クラスに自分と同じ誕生日の人がいる確率は40人クラスなら、約10%となります。十分に繰り返し観察していれば、冷たいものから熱いものに熱が伝わっている瞬間を見ることができ、水に垂らした絵具が一か所に固まった後、エネルギーを受けとって、空中に浮くということもありえなくはないのではないかといったことです。その確率が99.999%より低い1/10²³以下の確立になりますが、繰り返し行えば、あるときにはうまくいく時があるでしょう。それを無視して考えるとなると、現在の宇宙にぴったし同じにならないからこの理論は間違っているなどといった暴論が飛び出てきてしまいます。これだけは科学の発展のためには避けなくてはなりません。

 これは、科学だけの話ではありません。「99.999%の人がこうだから、自分はこうでなくてはならない」と考えている人は多いように感じますが、その99.999%がそうだという性質はいくつありますか?100個?200個?それにすべて当てはまる人は半分以下じゃないですか?自分がそうでないことを嘆いて何になるですか?他人がそうでないことに文句を言って何になるんですか?絶対しなくてはならない、絶対こうであるべきだといった考え方を捨てると、少しは楽になるんじゃないかな?